2017年11月16日木曜日

ティラー・J・マッツェオ(羽田詩津子 訳)『歴史の証人 ホテル・リッツ 生と死、そして裏切り』(東京創元社、2017年)

 パリのヴァンドーム広場に面した「ホテル・リッツ」は、19世紀末の創業以来、その豪華さと、機能的な設備の充実で注目を集め、王族、名士、著名人、文化人たちが出入りするホテルであった。冒頭の主要登場人物の紹介を読むだけで、歴史的な人物や出来事によって、その歴史が華やかに彩られ、また一方で翻弄されてきたことがよく分かる。世界の中心として華やかであった20世紀初頭のパリと歩みを合わせるかのように発展してきたホテル・リッツだが、その歴史の中でも、ナチスドイツに占領された時期は、元帥のヘルマン・ゲーリングが拠点を置き、将校の社交の場となる一方で、そこで働くホテルのスタッフがレジスタンス活動に従事するなど、虚々実々が濃密に行き交う非常に不思議な場となった。歴史が渦巻く中、数多くの登場人物たちが舞台に現れては消えていく一方で、ホテル・リッツだけは、歴史の目撃者として、ずっと存在し続けた。

 ホテル・リッツの創業者の息子と飲み友達だったこともあり、戦前よりリッツをお気に入りにしていた作家のアーネスト・ヘミングウェイは、「パリ解放」時、従軍記者として真っ先にホテル・リッツに乗り込み、その貴重なワインセラーを開けた。本書では、ヘミングウェイがホテル・リッツにいち早く駆けつけた理由として、盟友ロバート・キャパとの私憤まじりの個人的な競争意識をあげている。パリ解放から遡ること3ヶ月ほど前、キャパが開いたパーティーで痛飲したヘミングウェイは、交通事故を起こし、怪我の影響で空軍の飛行機に乗ることができず、ノルマンディー上陸作戦は、後方からの見物記事となってしまった。一方で、キャパは上陸作戦の只中に飛び込み、決定的な写真で名声をあげていた。さらにその後、パリ解放が近づく中、ヘミングウェイは強引にキャパを誘い、彼の甘言を聞き入れず無計画に進軍していたところ、敵の反撃に合い、危うく命を落としそうになったりもした。本来のジャーナリストとしての競争意識に加え、そんなバツの悪い事件が重なったことにより、ヘミングウェイは、キャパよりも早いホテル・リッツへの乗り込みを意識するようになったのではないかと、著者は推測している。解放時、パリに先に入ったのはキャパだったが、混乱に巻き込まれ、実際にホテル・リッツに先に乗り込んだのは、ヘミングウェイとなった。パリ解放の高揚感もあり、寛大になったヘミングウェイは、あとから駆けつけたキャパに、ホテル最高の部屋の鍵を渡し、二人の間の緊張は一旦解けることとなった。

 キャパ本人の自伝だけではなく、彼に関する評伝の中でも、パリ解放は、写真家キャパ物語の大きなハイライトとなっている。そこに至る道を、その数ヶ月前から盟友ヘミングウェイの私憤とともに振り返ると、通常の写真史とはまたちょっと違ったキャパの「パリ解放」の物語が見えてくる。そして、その物語の終着点となる舞台が、本書のテーマであるホテル・リッツである。写真の歴史を振り返ると、パリと写真の関係は非常に深いが、このホテル・リッツも、その一端を担っているといえるであろう。

http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488003852

2017年11月4日土曜日

岡本和明/辻堂真理『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』(新潮社、2017年)

 超常現象研究家・中岡俊哉の評伝。中岡は、ベストセラーとなった『恐怖の心霊写真集』や『狐狗狸さんの秘密』など超常現象に関する著作を200冊以上上梓。また、出版だけではなく、テレビ番組の企画、出演を通じて、日本にオカルトブームをもたらし、社会現象を起こした。そんな彼の人生を、関係者の証言などとともに振り返った本書では、中岡本人の生涯だけではなく、それに関連した戦後の出版事情や、テレビ業界の裏側の歴史も垣間みえて非常に興味深い。

 世界初の心霊写真集と評される『恐怖の心霊写真集』(二見書房、1974年)の出版の経緯も本書に詳しい。1960年代から70年代にかけて、新聞や雑誌で「不思議な写真」が頻繁に紹介され、また中岡自身も自著や、出演したTV番組で心霊写真を披露し、心霊科学の立場から鑑定してきた。その反応はよく、それを見聞きした一般人から、おびただしい数の鑑定依頼の写真が寄せられるようになってきたという。心霊・超常現象を盲信するわけではなく、実際に見て確かめ、様々な考察を積み重ねた上で科学的に究明することをモットーとした中岡にとって、これらの写真は、心霊の存在を証明するための貴重な資料となった。写真集は発売後、瞬く間にベストセラーとなったが、本書では、そのヒットの要因を、前例のない企画であったこと、心霊写真が特別な人ではなく一般の人が撮ったものであるというリアリティ、すべての心霊写真に中岡の鑑定書がついており、霊体の種類、写真に写る理由、フィルムに感光するメカニズムについて、中岡が考え抜き、研究者にもチェックしてもらった仮説が支持された点をあげている。翌年には、続編が出版され、一部カラー写真が採用されたこともあり、前作に続き多くの読者を得た。このシリーズは全7巻、トータルで150万部を売り上げたという。同シリーズにより、心霊写真なるものが一般に認知され大衆化したこともあり、人々が心霊写真に抱く不安や恐怖は、少なくなっていった。近年アナログのフィルムカメラがほぼ消滅し、写真のデジタル化による加工技術が進んで、心霊写真のようなものを最初から作り物ではないかと疑う時代にあって、同写真集は当時の人々が心霊写真に抱いていた気持ちを知るための貴重な歴史資料にもなっている。

 中岡の生涯を振り返った本書を読むとよく分かるが、コックリさんでも心霊写真でも、中岡が巻き起こした社会現象は、大体似たような道を辿っている。局所的に不思議なオカルト現象が巻き起こっていて、それに恐れや不安、興味を感じている人の声が中岡に寄せられたり、また彼自身が発掘したりする。それを科学的に証明すべく、徹底的なリサーチを行い、そしてその結果を著作という形で発表したり、TV番組を企画・制作していく中で、全国的に広がり、興味を持っていた人が一斉に飛びつき、社会現象になる。そうすると今度は、同じメディアの中から、それを疑問視する声があがり、バッシングが巻き起こり、ブームが終息する。通常、ブームの終焉とともに、その存在を否定されて、消えていく人が多い中、中岡は、何度も社会現象の火元となり、そのブームの寵児として、メディアに取り上げられている。それは、決してブームを巻き起こすためだけに面白おかしく適当なことを伝えているのではなく、自分自身が直接目にして信じたものを、自分なりの仮説に基づいて、正直に解説し、取り上げてきたことにあるように思われる。

 その正直さは、本書でも紹介されている中岡式の「心霊写真鑑定法」にもあらわれている。中岡は、鑑定にあたり、それらしく見える写真を排除し、残った1割について裏付け調査を行い、さらには科学者が開発したという「霊気感応系」なるもので判定合格したもののみを、「心霊写真」と認め、鑑定書を発行してきた。生涯3万点の写真を鑑定したが、確信を持って認定したものは500枚に満たないという厳しさと正直さが、中岡が一般の読者や視聴者から支持され、様々なブームの衰勢にも関わらず、常に起用されてきた理由なのかもしれない。

http://www.shinchosha.co.jp/book/324533/

2017年6月30日金曜日

ジュリー・オオツカ(岩本正恵訳、小竹由美子訳)『屋根裏の仏さま』(新潮社、2016年)

 1900年代初頭、ハワイやアメリカ本土に単身で移住した独身男性は、結婚したくても、法律上現地の白人女性とは結婚できず、また日本に帰って花嫁を連れて帰る時間も、お金もなかった。そんな中、1908年には、日本からの移民を自主制限する「日米紳士協定」により、家族以外の渡米はできなくなってしまった。そのような事情から生み出されたのが、「写真結婚」という方法で、移住者はアメリカにいながら、故郷の親戚などを通じ、写真の交換によるお見合いをして籍を入れ、正式に妻となったものを呼び寄せた。このようにしてやってきた花嫁は「写真花嫁(Picture Bride)」と呼ばれた。しかしこの「写真結婚」による「写真花嫁」も1920年(大正9年)には禁止され、約10年ほどで、その歴史は終わった。第二次世界大戦後、兵士と国際結婚して、アメリカに渡った「戦争花嫁」の先駆的存在でもある。

 何とかして妻を迎え入れたいがために、何十年も前の写真を使ってお見合いをし、実際に会ってみたら、写真と全然違ったということも多かったらしく、本書でも幾つかそのようなエピソードが登場する。新天地に嫁いで幸せな生活を送る人もいれば、一方でその後の人生を狂わされた人もおり、写真によってもたらされる運命の不思議が、「写真花嫁」にはある。

 本書は、この「写真花嫁」たちの特定の誰かを主人公にした物語ではなく、またその歴史を俯瞰的かつ客観的に語った歴史書でもない。「わたしたちは」という語り出しで、たくさんの「写真花嫁」たちの声が集められ、それがさざなみのように広がっている。断片的ながら具体性をもった個人の経験や記憶が集まり重なることで、この時代に「写真花嫁」として暮らした人々の姿が、重みをもって生き生きと現れてくる様には圧倒される。写真見合いによる渡米から結婚、慣れない土地での暮らし、出産と子育て、そして太平洋戦争による強制収容。日系移民として苦難の道を歩いた人々の忘れ去られてしまった声やつぶやきが、ひたひたと満ちてくるようである。

http://www.shinchosha.co.jp/book/590125/

2017年6月8日木曜日

レナ・ダナム(山崎まどか訳)『ありがちな女じゃない』(河出書房新社、2016年)

 アメリカの人気ドラマシリーズ「GIRLS」の監督・脚本・主演をこなし、その作品と演技の高さで多くの賞を受賞した、1986年生まれのレナ・ダナム。ニューヨーク在住の彼女が、「GIRLS」の主人公ばりに飾らない態度で、日々の生活や自分の生き方、セクシャリティ、女性としてありのままに生きることについての苦難や悩み、率直な疑問などをストーレトに語ったエッセイ。

 レナ・ダナムの父親は画家のキャロル・ダナム、そして母親は写真家のローリー・シモンズ。世界的に著名な芸術家を両親に持ったものの、自分の人生を自分なりに悩みながら生き抜いてきた1人の女性の生き様は、ドラマ「GIRLS」の主人公と重なる。本人が演じるドラマの主人公は、何者かに成りたいとあこがれつつも、親からは完全に自立できず、普通の女性ではいたくないと思いながらも、周りにいるちょっと変な仲間に翻弄されている。傷つきながらも、それでも世間が求める普通に抗って、自分の生を生きようとするドラマの主人公のベースは、演じた本人そのものであることが、本書を読むとよく分かる。

 ドラマ「GIRLS」では、あけすけなセックスシーンやヌードシーンが多く、非難も多かったようだが、女性がそのように大胆に性を表現することについて、ダナムは、母親のローリー・シモンズを引き合いに出しながら語っている。シモンズも若い頃、セルフポートレートで自身のヌードを撮影していた。しかし、現在のスマホで気軽に撮るセルフィーと、撮影機材や現像も複雑で面倒だった当時のセルフヌードとは比較にならないとし、そこには恐怖心とともに、自分自身が本当は何者かを明らかにしたいという渇望への強い意思を感じるという。それを引き継ぐように、娘であるダナムも、他者からの非難に傷つき恐れながらも、自分と自分の性を知るために、ドラマや映画などを自ら演じ、制作している。

 母がむきだしで、欠点をさらしてでも自分の体を記録してきたように、ダナムも、「見せられるような体じゃないのに」という人々の潜在意識に向き合い、美しくはなく、また上手でもないかもしれないが、こうあるべきであるという身体や性にあらがって制作をしてきた。そんな彼女の映画を見て感銘を受けた少年のエピソードは、身体のイメージについてダナムが大きな影響を与えられたことを示しており、彼女の映像がなぜ共感を呼ぶのかを如実に示している。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309207193/

2017年3月18日土曜日

北井一夫『写真家の記憶の抽斗』(日本カメラ社、2017年)

 写真家の北井一夫が、写真家として活動し始めた20代から、約50年にわたる過去の記憶を振り返った自伝的エッセイ。写真家としての出発点になったという1964年11月の横須賀における米原子力潜水艦寄港反対運動の取材から、回想は始まる。ブレ、粗粒子、傷だらけのフィルムを使うことは、学生たちの社会への反抗と、写真の常識への反抗を結びつけ、それを写真に定着する実験だっと振り返る。デモの様子を写真集『抵抗』というタイトルで自費出版したもののまったく売れず、写真の大学も中退、それでも写真家として、発表のあてもなく労働者の写真を撮り続けるなど、ハングリーな若手時代の回想は面白い。当時の学生らしい秩序への抵抗の一方で、自分のやり方で、目見当でも何とかなる写真のことを少しずつ気に入っていたという。
 
 政治組織と社会への抵抗に縛られるあまり、自分だけの自由を表現した写真が撮れなくなり、また非日常的な活動の足元にある日常的な営みへの意識などが高まり、代表作である「三里塚」の写真が生まれた。政治によって左右されない、生活する農民の日常の場と風景をおさえた写真は、同世代の若手写真家が都会を表現の場に選び、都市論を展開していたことに対する、写真家の静かな抵抗にも感じられる。実際にその場に入りながらも、農民の生活に寄りかかりすぎず、撮影者と被写体との間にしっかりと距離を置いて撮影することで、カメラを意識させつつも、逆にリアルで、自由な表情をドキュメントすることに成功した。

 1970年代の地方を撮影した写真では、高度経済成長による過疎化と新しいものへの建て替えで、古き良き日本の農村を撮影できなかったことへの悔恨を語る。それがゆえに、失われた古き良き村の幻を追い求めて写真を撮り続けることになり、80年代に入ると、自分のドキュメンタリーと、新しく変化する現実の街とが乖離してしまったという。その後、身近にあった団地の生活と日常の風景を撮ることで、あらためて自然なドキュメンタリーを取り戻そうとすることになる。

 日常の風景でありながら、子供が真ん中にぽつんといてどこか不安な写真は、孤独な子供時代の心の反映であるといった自己分析など、自分の写真表現を見返しながら、そこに映し出された時代や自分の気持ちといったようなものを、記憶の引き出しから取り出すようにして語っている。

https://www.nippon-camera.com/list.php?dt=890&1488385959

2017年2月26日日曜日

家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』(ちくま文庫、2017年)

 1867年に、30歳で大政奉還をおこない、その後、76歳まで生きた徳川家最後の将軍・徳川慶喜。将軍として生きた前半の人生に比べ、後半は趣味人として、余生を静かに暮らしたというかたちで簡単に振り返られることが多いが、本書では伝記や日記を丹念に紐解きながら、余生と呼ばれるその後半生の静かな生活を詳細に分析し、そこに見られる慶喜の無言の思いや、彼を取り巻く明治という時代の変遷をふりかえっている。

 明治初期、静岡に移住してきた頃は、新しい近代天皇制国家と距離をおき、自分を律するように、多彩な趣味に没頭したが、それは主に、まだ若く元気な体を 活かした外出しての猟や鷹狩り、投網などであった。慶喜のよく知られた趣味の一つである写真は、実際には慶喜の老齢化が顕著となった明治20年代の後半(55歳頃)ぐらいから、大きなウェイトを占めるようになってきたという。それは体力的な理由だけではなく、ちょうどその頃、弟の徳川昭武が写真を始めたことや、旧幕臣の写真師徳田孝吉の指導を受けたことも大きいと、著者は考察している。慶喜の生活を丹念に見つめた本書を読むと、生来、新しいもの好きで好奇心旺盛、研究熱心といった性格が、写真に没頭することになった大きな理由であることも、よく分かる。

 明治30年代に入り、東京に移り住んだ慶喜は、参内し、明治天皇、皇后との会見をはたすなどして、次第に皇室との関係も深まり、皇太子(のちの大正天皇)との親交がはじまる。カメラなどの新しいものが好きで、写真を撮られることに慣れており、気さくで好奇心旺盛といった点が二人とも共通していたせいか、皇太子からのお誘いも多く、慶喜もそれにできるだけ応えようとしていたという。明治30年代以降、近代天皇制国家が確立したこともあり、かつて確執と緊張感のあった将軍家と天皇家が和解するかのように距離を縮め、その存在は国家に包摂されるようになっていくが、写真という共通の趣味を持った二人の、年齢や立場を超えた友情も、その流れの一助になったのではないかと思える。ドラマチックな前半生にくらべ、趣味人の余生といった一言で片付けられがちな慶喜の、静かだが非常に大変であっただろう人生が見えて面白い。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480434227/

アントワーヌ・コンパニョン『書簡の時代 ロラン・バルト晩年の肖像』(みすず書房、2016年)

 フランスの哲学者、批評家であるロラン・バルトの高弟アントワーヌ・コンパニョンが、二人の間で交わされた書簡を読み返しながら、師バルトを振り返る。バルトが亡くなるまでの5年間は、写真に関する著作の構想の頓挫、母の死、そこからインスピレーションを受けた『明るい部屋』の執筆、交通事故、そして死と、非常に重要な出来事が重なり、まさにその時代に師事し、書簡を交わしたコンパニョンの記憶は非常に興味深い。

 バルトの著作のほとんどが注文によって書かれたのと同じく、この本も、バルト生誕100周年を迎える2015年に、彼が亡くなった年齢と同じ65歳を迎える弟子のコンパニョンが、要請を受けて書き出すところから始まっている。会うと必ず泣き言を言い出し、身体の不調を訴えるバルトのように、本書の冒頭で、コンパニョンも気分が乗らず、逡巡している様子をだらだらと綴る。読み進めても、肝心のバルトの書簡は最後まで引用されずに終わる。これはまるで写真本のようで、最後まで肝心の温室の写真が出てこない、師バルトの『明るい部屋』の転倒を彷彿とさせる。このような符合は至るところに表れる。師の評論や手法に正直に疑義を唱え、バルトとは一線を画し、独立した存在として向き合ってきたコンパニョンだが、しっかりとバルトの薫陶を受け、その基本的な精神を刻印されている姿からは、往時のバルトが垣間見えて、どこか微笑ましい。「バルトによらないバルト伝」というこの迂回こそが、もっともらしさを伝えるのは、それもまたバルトらしいといえるのだろうか。

 いつも早食いだったバルトの記憶は、彼のサナトリウム時代の記憶へとつながり、その記憶はまた彼の体調不良や死因へと揺り戻され、結びつけられる。過去はただの過去ではなく、それを思い出す者の新しい視線によって新しく照射され、捉え直される。本書は至るところで、このような繋がりと再構築が見られ、ただの過去の伝記ではない、創造的な物語のようでもある。

http://www.msz.co.jp/book/detail/08563.html

ロジェ・グルニエ『パリはわが町』(みすず書房、2016年)

 フランスの小説家、ジャーナリストであり、写真についてのエッセイもあるグルニエによる、私的記憶によるパリの断片集。番地を鍵に、第二次世界大戦の占領期からレジスタンスの活動、戦後ジャーナリストとして復興期をたくましく生きた自分の人生と、写真家や小説家、詩人などが行き交う20世紀パリの様々な出来事の記憶をまとめて、グルニエがテンポよく語っている。

 グルニエの若い頃の友達で、その伝手で週刊誌の職を得た女性が、たまたまメッセンジャーが休みだった時に、ブラッサイの元に写真を受け取りにいったことが縁で結婚した話や、ブラッサイのアトリエを訪れたジャン・ジュネが、窓の外から見渡せるサンテ刑務所(彼はかつてそこに収監されていた)の姿に目をみはるなど、写真に関連する話も多い。

 ブラッサイと交流のあったヘンリー・ミラーは、モンパルナス大通りから折れたところにあるカンパーニュ=プルミエール通りに住んでいたとある。本書ではふれられていないが、その一方通行の路地こそ、かつてアジェのアトリエがあり、数十m先にはマン・レイのアトリエ、そしてそこでアシスタントをしていたベレニス・アボットが、レイから見せてもらったアジェの写真をいたく気に入り、近所のアジェを訪れ、ポートレートを撮るなど、写真の歴史的にも非常に興味深い場所。パリの街と記憶は、写真史そのものであると言いえてしまいそうなぐらい、濃密な歴史が刻まれており、本書でもその一端を知ることができる。

 パリに生きた一個人の記憶による地理学の語りと考えると、都市は違えど、東京の写真をベースに、その街角や雑踏、市井の人々を語る荒木さんの『東京は、秋』などを何となく思い出す。

http://www.msz.co.jp/book/detail/08555.html

楡周平『象の墓場』(光文社文庫、2016年)

 デジタルカメラの普及により急激に衰退した写真フィルムとその関連事業。その事業構造の転換に失敗したKODAK社をベースにしたビジネス小説。コダックの日本法人を舞台に、事業構造の変換の必要性に何十年も前から気づいていたにも関わらず、大企業ゆえに身動きが取れなくなった巨象の末路と、そこで働くビジネスマンと写真に関する物語が描かれている。もともとは2012年から文芸誌で連載発表され、2013年に単行本、そして2016年に文庫化された。

 デジカメが普及しても、サービスプリントの需要は減らないという予測もあったが、現像液や印画紙、サービスプリントなどの関連事業の売上高が急落。フォトCDやAPS、3DOに、ストックフォトのCD-ROMなど、今となっては懐かしい、泡沫と消えた数々の製品が登場し、世の中のあらゆる場面で、写真が、本格的にデジタルデータ化されていく時代の到来が描かれている。文庫化されるこの3年までの間に、写真のデジタル化はさらに進み、携帯端末によるコンパクトデジカメにも劣らない写真や動画の撮影、クラウドなどによる写真共有、AIによる画像認識など、写真をめぐる環境は想像できないぐらい進化しており、たとえ、写真に関する事業構造の転換に成功していたとしても、次から次へとくる荒波に、果たしてコダックが生き残れたかは、正直心許ない。

 ただ一方で、プリントや家族アルバムといった写真文化の衰退も少し悲観的に描かれているが、実際はSNSなどを通じて、写真を撮る、見る、見せ合うという機会はより増えている昨今の風潮というのは、ちょっと暗くなりがちな同書の結末を、良い意味で裏切っているのではないだろうか。

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334772529

2017年2月25日土曜日

原武史『大正天皇』(朝日文庫、2015年)

 大正天皇の評伝だが、大正天皇と肖像写真という観点から読んでも非常に面白い。明治30年代頃には、明治天皇の身体に不調が出始めたこともあり、行幸や天覧が減り、肖像画の浸透も進んでいなかったため、明治天皇のお姿が見えづらくなる一方、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)は、1900年の結婚時に、その肖像画が新聞に掲載されたほか、各地の巡啓で生身の姿を現し、気軽にお声をかけられるなどして、その人間的なイメージが少しずつ広がっていった。1907年5月の山陰巡啓では、皇太子の御写真が、初めて小学校などに配布され、1908年秋の東北巡啓の際には、記念絵葉書が売り出された。皇太子の写真のほか、皇太子妃、3人の皇子などがセットで、明治天皇とは違った家庭的なイメージが、生の肖像写真を通じて広まっていった。

 写真嫌いの明治天皇と違って、大正天皇は写真にも興味を示され、それもあってか1907年10月の韓国巡啓の際には、同行した韓国皇太子の李垠に記念写真を撮ろうと言い出され、同伴した有栖川宮威仁親王の持っていたカメラを見せ、その仕組みを説明されるなどしたという。また、記者が官吏になりすまして両陛下を盗撮し、それが新聞に掲載された際、内務大臣の原敬が不敬な振る舞いが増えることを警戒し、陛下に奏上したが、一笑に付しており、写真を通じて自分の姿が民衆に見られることに慣れている大正天皇の姿が浮かんでくる。

 そんな天皇も即位から数年経つと、公務と心労のため体調を崩され、国中に不安も広まり、皇太子裕仁親王への期待が高まる。故に、親しみ易さがあった大正天皇とは違う、威厳をもった新しい天皇とその臣民による一体感を高めるような統制のある儀式が増え、天皇の肖像もそれに沿って神格化されていったように思われる。明治と昭和という神格化された天皇像を生み出した時代の狭間に生きた大正天皇の肖像とはいかなるものであったのかについても知ることのできる評伝となっている。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16943