2017年2月26日日曜日

家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』(ちくま文庫、2017年)

 1867年に、30歳で大政奉還をおこない、その後、76歳まで生きた徳川家最後の将軍・徳川慶喜。将軍として生きた前半の人生に比べ、後半は趣味人として、余生を静かに暮らしたというかたちで簡単に振り返られることが多いが、本書では伝記や日記を丹念に紐解きながら、余生と呼ばれるその後半生の静かな生活を詳細に分析し、そこに見られる慶喜の無言の思いや、彼を取り巻く明治という時代の変遷をふりかえっている。

 明治初期、静岡に移住してきた頃は、新しい近代天皇制国家と距離をおき、自分を律するように、多彩な趣味に没頭したが、それは主に、まだ若く元気な体を 活かした外出しての猟や鷹狩り、投網などであった。慶喜のよく知られた趣味の一つである写真は、実際には慶喜の老齢化が顕著となった明治20年代の後半(55歳頃)ぐらいから、大きなウェイトを占めるようになってきたという。それは体力的な理由だけではなく、ちょうどその頃、弟の徳川昭武が写真を始めたことや、旧幕臣の写真師徳田孝吉の指導を受けたことも大きいと、著者は考察している。慶喜の生活を丹念に見つめた本書を読むと、生来、新しいもの好きで好奇心旺盛、研究熱心といった性格が、写真に没頭することになった大きな理由であることも、よく分かる。

 明治30年代に入り、東京に移り住んだ慶喜は、参内し、明治天皇、皇后との会見をはたすなどして、次第に皇室との関係も深まり、皇太子(のちの大正天皇)との親交がはじまる。カメラなどの新しいものが好きで、写真を撮られることに慣れており、気さくで好奇心旺盛といった点が二人とも共通していたせいか、皇太子からのお誘いも多く、慶喜もそれにできるだけ応えようとしていたという。明治30年代以降、近代天皇制国家が確立したこともあり、かつて確執と緊張感のあった将軍家と天皇家が和解するかのように距離を縮め、その存在は国家に包摂されるようになっていくが、写真という共通の趣味を持った二人の、年齢や立場を超えた友情も、その流れの一助になったのではないかと思える。ドラマチックな前半生にくらべ、趣味人の余生といった一言で片付けられがちな慶喜の、静かだが非常に大変であっただろう人生が見えて面白い。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480434227/

アントワーヌ・コンパニョン『書簡の時代 ロラン・バルト晩年の肖像』(みすず書房、2016年)

 フランスの哲学者、批評家であるロラン・バルトの高弟アントワーヌ・コンパニョンが、二人の間で交わされた書簡を読み返しながら、師バルトを振り返る。バルトが亡くなるまでの5年間は、写真に関する著作の構想の頓挫、母の死、そこからインスピレーションを受けた『明るい部屋』の執筆、交通事故、そして死と、非常に重要な出来事が重なり、まさにその時代に師事し、書簡を交わしたコンパニョンの記憶は非常に興味深い。

 バルトの著作のほとんどが注文によって書かれたのと同じく、この本も、バルト生誕100周年を迎える2015年に、彼が亡くなった年齢と同じ65歳を迎える弟子のコンパニョンが、要請を受けて書き出すところから始まっている。会うと必ず泣き言を言い出し、身体の不調を訴えるバルトのように、本書の冒頭で、コンパニョンも気分が乗らず、逡巡している様子をだらだらと綴る。読み進めても、肝心のバルトの書簡は最後まで引用されずに終わる。これはまるで写真本のようで、最後まで肝心の温室の写真が出てこない、師バルトの『明るい部屋』の転倒を彷彿とさせる。このような符合は至るところに表れる。師の評論や手法に正直に疑義を唱え、バルトとは一線を画し、独立した存在として向き合ってきたコンパニョンだが、しっかりとバルトの薫陶を受け、その基本的な精神を刻印されている姿からは、往時のバルトが垣間見えて、どこか微笑ましい。「バルトによらないバルト伝」というこの迂回こそが、もっともらしさを伝えるのは、それもまたバルトらしいといえるのだろうか。

 いつも早食いだったバルトの記憶は、彼のサナトリウム時代の記憶へとつながり、その記憶はまた彼の体調不良や死因へと揺り戻され、結びつけられる。過去はただの過去ではなく、それを思い出す者の新しい視線によって新しく照射され、捉え直される。本書は至るところで、このような繋がりと再構築が見られ、ただの過去の伝記ではない、創造的な物語のようでもある。

http://www.msz.co.jp/book/detail/08563.html

ロジェ・グルニエ『パリはわが町』(みすず書房、2016年)

 フランスの小説家、ジャーナリストであり、写真についてのエッセイもあるグルニエによる、私的記憶によるパリの断片集。番地を鍵に、第二次世界大戦の占領期からレジスタンスの活動、戦後ジャーナリストとして復興期をたくましく生きた自分の人生と、写真家や小説家、詩人などが行き交う20世紀パリの様々な出来事の記憶をまとめて、グルニエがテンポよく語っている。

 グルニエの若い頃の友達で、その伝手で週刊誌の職を得た女性が、たまたまメッセンジャーが休みだった時に、ブラッサイの元に写真を受け取りにいったことが縁で結婚した話や、ブラッサイのアトリエを訪れたジャン・ジュネが、窓の外から見渡せるサンテ刑務所(彼はかつてそこに収監されていた)の姿に目をみはるなど、写真に関連する話も多い。

 ブラッサイと交流のあったヘンリー・ミラーは、モンパルナス大通りから折れたところにあるカンパーニュ=プルミエール通りに住んでいたとある。本書ではふれられていないが、その一方通行の路地こそ、かつてアジェのアトリエがあり、数十m先にはマン・レイのアトリエ、そしてそこでアシスタントをしていたベレニス・アボットが、レイから見せてもらったアジェの写真をいたく気に入り、近所のアジェを訪れ、ポートレートを撮るなど、写真の歴史的にも非常に興味深い場所。パリの街と記憶は、写真史そのものであると言いえてしまいそうなぐらい、濃密な歴史が刻まれており、本書でもその一端を知ることができる。

 パリに生きた一個人の記憶による地理学の語りと考えると、都市は違えど、東京の写真をベースに、その街角や雑踏、市井の人々を語る荒木さんの『東京は、秋』などを何となく思い出す。

http://www.msz.co.jp/book/detail/08555.html

楡周平『象の墓場』(光文社文庫、2016年)

 デジタルカメラの普及により急激に衰退した写真フィルムとその関連事業。その事業構造の転換に失敗したKODAK社をベースにしたビジネス小説。コダックの日本法人を舞台に、事業構造の変換の必要性に何十年も前から気づいていたにも関わらず、大企業ゆえに身動きが取れなくなった巨象の末路と、そこで働くビジネスマンと写真に関する物語が描かれている。もともとは2012年から文芸誌で連載発表され、2013年に単行本、そして2016年に文庫化された。

 デジカメが普及しても、サービスプリントの需要は減らないという予測もあったが、現像液や印画紙、サービスプリントなどの関連事業の売上高が急落。フォトCDやAPS、3DOに、ストックフォトのCD-ROMなど、今となっては懐かしい、泡沫と消えた数々の製品が登場し、世の中のあらゆる場面で、写真が、本格的にデジタルデータ化されていく時代の到来が描かれている。文庫化されるこの3年までの間に、写真のデジタル化はさらに進み、携帯端末によるコンパクトデジカメにも劣らない写真や動画の撮影、クラウドなどによる写真共有、AIによる画像認識など、写真をめぐる環境は想像できないぐらい進化しており、たとえ、写真に関する事業構造の転換に成功していたとしても、次から次へとくる荒波に、果たしてコダックが生き残れたかは、正直心許ない。

 ただ一方で、プリントや家族アルバムといった写真文化の衰退も少し悲観的に描かれているが、実際はSNSなどを通じて、写真を撮る、見る、見せ合うという機会はより増えている昨今の風潮というのは、ちょっと暗くなりがちな同書の結末を、良い意味で裏切っているのではないだろうか。

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334772529

2017年2月25日土曜日

原武史『大正天皇』(朝日文庫、2015年)

 大正天皇の評伝だが、大正天皇と肖像写真という観点から読んでも非常に面白い。明治30年代頃には、明治天皇の身体に不調が出始めたこともあり、行幸や天覧が減り、肖像画の浸透も進んでいなかったため、明治天皇のお姿が見えづらくなる一方、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)は、1900年の結婚時に、その肖像画が新聞に掲載されたほか、各地の巡啓で生身の姿を現し、気軽にお声をかけられるなどして、その人間的なイメージが少しずつ広がっていった。1907年5月の山陰巡啓では、皇太子の御写真が、初めて小学校などに配布され、1908年秋の東北巡啓の際には、記念絵葉書が売り出された。皇太子の写真のほか、皇太子妃、3人の皇子などがセットで、明治天皇とは違った家庭的なイメージが、生の肖像写真を通じて広まっていった。

 写真嫌いの明治天皇と違って、大正天皇は写真にも興味を示され、それもあってか1907年10月の韓国巡啓の際には、同行した韓国皇太子の李垠に記念写真を撮ろうと言い出され、同伴した有栖川宮威仁親王の持っていたカメラを見せ、その仕組みを説明されるなどしたという。また、記者が官吏になりすまして両陛下を盗撮し、それが新聞に掲載された際、内務大臣の原敬が不敬な振る舞いが増えることを警戒し、陛下に奏上したが、一笑に付しており、写真を通じて自分の姿が民衆に見られることに慣れている大正天皇の姿が浮かんでくる。

 そんな天皇も即位から数年経つと、公務と心労のため体調を崩され、国中に不安も広まり、皇太子裕仁親王への期待が高まる。故に、親しみ易さがあった大正天皇とは違う、威厳をもった新しい天皇とその臣民による一体感を高めるような統制のある儀式が増え、天皇の肖像もそれに沿って神格化されていったように思われる。明治と昭和という神格化された天皇像を生み出した時代の狭間に生きた大正天皇の肖像とはいかなるものであったのかについても知ることのできる評伝となっている。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16943