大正天皇の評伝だが、大正天皇と肖像写真という観点から読んでも非常に面白い。明治30年代頃には、明治天皇の身体に不調が出始めたこともあり、行幸や天覧が減り、肖像画の浸透も進んでいなかったため、明治天皇のお姿が見えづらくなる一方、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)は、1900年の結婚時に、その肖像画が新聞に掲載されたほか、各地の巡啓で生身の姿を現し、気軽にお声をかけられるなどして、その人間的なイメージが少しずつ広がっていった。1907年5月の山陰巡啓では、皇太子の御写真が、初めて小学校などに配布され、1908年秋の東北巡啓の際には、記念絵葉書が売り出された。皇太子の写真のほか、皇太子妃、3人の皇子などがセットで、明治天皇とは違った家庭的なイメージが、生の肖像写真を通じて広まっていった。
写真嫌いの明治天皇と違って、大正天皇は写真にも興味を示され、それもあってか1907年10月の韓国巡啓の際には、同行した韓国皇太子の李垠に記念写真を撮ろうと言い出され、同伴した有栖川宮威仁親王の持っていたカメラを見せ、その仕組みを説明されるなどしたという。また、記者が官吏になりすまして両陛下を盗撮し、それが新聞に掲載された際、内務大臣の原敬が不敬な振る舞いが増えることを警戒し、陛下に奏上したが、一笑に付しており、写真を通じて自分の姿が民衆に見られることに慣れている大正天皇の姿が浮かんでくる。
そんな天皇も即位から数年経つと、公務と心労のため体調を崩され、国中に不安も広まり、皇太子裕仁親王への期待が高まる。故に、親しみ易さがあった大正天皇とは違う、威厳をもった新しい天皇とその臣民による一体感を高めるような統制のある儀式が増え、天皇の肖像もそれに沿って神格化されていったように思われる。明治と昭和という神格化された天皇像を生み出した時代の狭間に生きた大正天皇の肖像とはいかなるものであったのかについても知ることのできる評伝となっている。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16943
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