2018年2月25日日曜日

小野塚謙太『被爆電車75年の旅』(ザメディアジョンプレス、2017年)

 1945年8月6日の広島原爆投下により、市内を走る路面電車の多くも、大破・全焼するなど壊滅的な打撃を受けた。広島電鉄の懸命な復旧作業によって、被災から3日後には一部の区間から運行を開始、さらには、大破・全焼した路面電車も、修理され、続々と復帰していった。戦後の焼け野原を走り、今も3両が現役車両として走り続ける広島の路面電車は、復興の象徴ともいえる。

 このような路面電車は、被爆電車とも呼ばれ、今なお動き続ける記憶のモニュメントとして、重要な価値を持っている。本書は、この被爆電車を、200点超の写真と図版で紹介している。車両の形式とイラスト図解、広島電鉄の歴史、戦時中、少女乗務員として実際に車両を動かしていた広島電鉄家政女学校の生徒たちの証言、現在の広島電鉄の路面電車を支える人々のインタビューと、被爆電車にまつわる過去から現在までの様々な歴史と記憶が、多面的に紹介されている。

 写真史の中でも、広島で写真館を経営していた岸田貢宜(みつぎ)が、原爆投下後に撮影した広島市街の写真が知られているが、その中にも路面電車が写り込んでいる。よく知られた1枚は、投下3日後に、爆心地から約700mの中国電力前で、爆風により軌道から外れて半焼した650形651号の写真である。この651号こそ、現在も現役の路面電車として走り続ける3両のうちの1つである。本書でもこの651号は詳細に解説されている。650形は、戦中の昭和17年、徴兵により、乗務員が足りなくなり、それを大型車の輸送力で補う目的で製造されたという。大型で定員は80名のため、被爆時には火災によって多くの命が失わることになった。復旧は1946年3月で、現在は、ICカードやWi-Fi、低床化を導入するなど、現代にも対応した車両として、活躍している。

 また、岸田が、投下翌日に撮影した、窓のガラスが全て吹き飛び、焼け焦げた中国新聞社のビルが写った写真にも、大破した路面電車が写り込んでいる。こちらは400形の421号。被爆電車というと、現在も現役で運転されている650形の3両を指すことも多いが、8月6日の広島で被爆した広島電鉄の路面電車は100両を超えており、それらの被災車両も、早いものは投下後3日から復帰し、数年後には90両を超す車両が復旧している。被爆電車も、戦後、時がたち、また高度成長期とモータリゼーションの荒波により、次第に廃車となるものが増えていき、現在は、650形の3両となったが、それぞれの車両に歴史と被災の記憶があったことが、本書を読むとよく分かる。

2018年2月11日日曜日

宮内庁『昭和天皇実録 第九』(東京書籍、2016年)

 宮内庁が編集した昭和天皇の日々の記録である『昭和天皇実録』の第9巻は、アメリカ軍の本格的な反攻が始まり、ヨーロッパでは同盟国のイタリア、ドイツが降伏するなどして、次第に追い詰められていくもっとも苦しい時期のものである。戦局が悪化し、臣民が失われ、降伏を決断し、ついに占領政策下に入る、日本と昭和天皇の国難の日々が、淡々とした記述でありながら克明に描かれている。

 1945年9月27日、昭和天皇と連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの会見の際、撮影された歴史的な写真についても詳しく知ることができる。その日の朝、御出門された昭和天皇は、赤坂の米国大使館に10時に御到着され、玄関で最高司令官軍事秘書と副官の奉迎を受けられ、その両名の誘引にて次室に入られた。そこで出迎えのマッカーサーと握手、挨拶を交わされ、マッカーサーの案内により御会見室に入られた。御会見室内にて、昭和天皇はマッカーサーの左側にお立ちになり、米軍写真師による写真撮影3枚を受けられた。

 その後、御着席になり、約30分に渡って会話をなさったのだが、その通訳を務めた外務省の奥村勝蔵の記録によると、「元帥ハ極メテ自由ナル態度ニテ」冒頭に、「実際写真屋トイフノハ妙ナモノデパチ々々撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン」という、場を和ませる冗談とも皮肉ともとれる感想を述べているのが面白い。それに対して、昭和天皇の御返答は記録されておらず、微笑まれたのか、苦笑されたのか、それとも平然と受け流したのか、そのあたりは分からない。

 ご会見の際撮影された3枚のうち、1枚目はマッカーサーが目を閉じており、2枚目は昭和天皇の口が開いていて、結局3枚目が公式の写真となった。この写真が2日後の9月29日に、『朝日新聞』『読売報知』『毎日新聞』に掲載されると、内務省が発売を禁止。すると、GHQがすぐさま同日午前11時30分に、新聞と言論に対する統制実施を無効化し、当該紙の頒布は支障なき旨を新聞社に通告、この写真は新聞を通じて、広まることとなった。翌30日に、昭和天皇は宮内大臣石渡荘太郎に謁を賜い、この事件について、奏上を受けている。そこでの御感想は特に記録されていないが、以前は神格化され厳かに扱われていた自身の肖像写真が、たった1ヶ月ほどで変化した今回の出来事を通じて、大いに時勢を感じられたのではないかと、勝手ながら想像してしまう。2日前にマッカーサーから、「「プレスノ自由」ハ今ヤ世界ノ趨勢トナツテ居ル」と聞かされていたことも思い出されたのではないだろうか。

 昭和天皇の肖像をめぐる変化は、実録の記述にも、ところどころ現れる。同年10月26日には、軍服の廃止に伴い、モーニングコートをお召しになった御写真の撮影に臨まれ、さらに12月15日(日曜日)と29日(土曜日)には、サンニュースフォトス社の写真師山端啓之助(祥玉)に、御日常の撮影を許可され、その写真は、『LIFE』誌(1946年2月4日号)に「Sunday at Hirohito's」として掲載されることになった。そこでは、笑顔の写真、食事の写真などと一緒に、御家族との団欒の様子、普段の御暮らし、御部屋にリンカーンとダーウィンの胸像が飾られている様子などが、写真で初めて公開された。

 昭和18年(1943年)から昭和20年(1945年)の『昭和天皇実録』を読むと、このように、時勢とともに昭和天皇の肖像をめぐる変化が読み取れて非常に興味深い。また、戦艦武蔵に行幸された時に、撮影された甲板での有名な集合写真なども、正確に記録が残されており、残された写真を見返す際の貴重な裏付け資料ともなっている。

http://www.tokyo-shoseki.co.jp/books/74409/

2018年1月7日日曜日

前川貴行『動物写真家という仕事』(新日本出版社、2017年)

 動物写真家・前川貴行が、自らの半生を振り返り、どのようにして動物写真家となり、何を感じながら動物と向き合って写真を撮り続けてきたかを語ったフォトエッセイ。ホッキョクグマ、ハクトウワシ、オランウータンなど、各節ごとに、自分が被写体とした動物の撮影体験を綴っている。

 そんな中でも、非常に印象深いのが、アラスカの大地で大移動をするカリブーの撮影記である。地味なカリブーにはもともと興味が湧かなかったというが、アラスカを取材するうちに、南北数千キロの移動を毎年繰り返し、そこに暮らす人や肉食獣の生活の糧となるカリブーこそがアラスカの生態系を代表する生き物として、浮かんできたという。広大な大地でその群れを探すのは非常に難しい幻の存在であること、時間とお金をかけないと撮影できず、また1人の力ではどうにもならない難しい挑戦であること、また自身が憧れ、尊敬した写真家・星野道夫のメインテーマであったことなどから、カリブーを撮影することは、写真家の夢となった。それは、動物写真家になるという夢を叶えてから10年ほど経って、ようやく見えてきた新しい夢であったという。

 撮影はやはり困難を極め、カリブーを求めて、果てなき原野をさまよい続け、無力感に苛まれる日々となった。しかし、望みを絶やさず、辛抱強く撮影を続けた先に、ついにカリブーの群れと出会う幸運を手にする。しかし、その群れも蜃気楼のようにあっという間に移動し、ツンドラのゴーストと呼ばれる所以をまざまざと見せつけられる。写真家は、ついに夢を叶えたが、夢を追いかけるうちに、夢にも思わなかったような数々の貴重な体験をした。そして、今度は越冬するカリブーを見てみたいという、もう1つの新しい夢を見るようになる。カリブーが移動するのが目には見えない何かの力によってだとすれば、写真家もまたその力に引きずられたのかもしれない。カリブーの旅が続く限り、写真家の夢も続く。星野道夫を夢見た前川貴行の夢を、またいつか新しい写真家が夢見る日がくるであろう。このカリブーの撮影記は、「動物写真家という仕事」がどのようなものであるかを、雄弁に物語っている。

https://www.shinnihon-net.co.jp/general/detail/name/%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E4%BB%95%E4%BA%8B/code/978-4-406-06162-9/